彦根の観光ガイドときどき滋賀

彦根城の歴史の話をします

知ってから行かれる方がおすすめです。知らないで行くのと見方がぜんぜん違いますよ。

天下分け目の戦

 時をさかのぼること約400年ー。1600年、天下分け目の戦「関ヶ原の戦い」で勝利した徳川家康は江戸幕府を開きました。家康は勝利に大きく貢献した井伊直政に敵将であった石田三成の居城、佐和山城を与えました。
 佐和山城は東山道(後の中山道)と北国街道の分岐点に位置し、鎌倉時代には城館が築かれて以来、武将達の天下取り争いの重要拠点となっていました。家康は合戦後も強い勢力を持つ、豊臣家(大坂城)と西国の大名を監視するため、直政に新しい城の築城を命じたのです。

彦根城築城  

 ところが、直政は合戦の鉄砲傷が元で死去。後を継いだ直継は城の移築計画を家康に申し出ます。(直継が幼少だったので、家老が代行したと言われています)なぜなら、佐和山城が山頂に城を築いた山城であったため、当時の鉄砲戦には不都合だったからです。また、豊臣色が濃い佐和山城を一新させたかったのかもしれません。そして、移築先は彦根山に決定し、1604年からいよいよ「彦根城」の建築が始まりました。

リサイクルの城 !?

一刻も早い築城が望まれた彦根城の建築には、佐和山城をはじめ、小谷城、長浜城、大津城などといった近隣の旧城郭の石垣や建造物が使われました。彦根城は木造だからこそできた、我が国ならではの、今で言うリサイクルの城なのです。
 工事は幕府主導によって進められ、近隣国の大名にも手助けが命じられました。二代目将軍秀忠からの工事を労う書状も残っています。彦根城の建築が幕府にとっていかに重要だったかが分かります。

工事の中断と再開

1607年頃には天守などの主要な部分が完成しましたが、1614年から翌年にかけて「大坂の陣」が起こったため工事が中断されました。そして、豊臣家滅亡後、今度は彦根藩単独で工事が再開されました。そしてー1622年頃、築城開始から18年の歳月をかけて、ようやく城下町を含めた城郭の全容が完成したのです。
 井伊家は明治維新に至るまで14代にわたり、譜代大名筆頭、彦根藩主を維持しました。13代藩主の直弼は幕末の大老となり、幕府存続のため開国を推し進めましたが、桜田門外の変で暗殺されてしまったことで有名です。

解体の危機

城は時の流れとともに傷みが生じ、火災・地震といった天災にも度々見舞われます。関連資料から藩が幕府の許可を得ながら、財政難の中で城を維持していく様子がうかがえます。
 ーそして、1868年。明治維新が始まり、廃城令が公布されました。武士を中心とした政治は終わり、その象徴である城郭の解体が全国で始まったのです。彦根城も解体が進んでいました。そんな時、明治天皇の北陸巡幸に同行した大隈重信(1838-1922第8代、17代内閣総理大臣、早稲田大学創立者)が、彦根城に立ち寄り、その消失を惜しみ、天皇に保存を願い出たところ、解体が中止されたのです。もし、天皇の巡幸がなかったら…、大隈重信が彦根城に立ち寄らなかったら…。今の彦根城はなかったかもしれません。

日本の文化遺産として

こうして彦根城の一部は解体されたものの主要な建物は残されました。幸い昭和の戦火からも免れ、天守が1952年、国宝に指定されました。そして、全国的に見ても築城当時の姿が偲ばれる保存状態の良い城郭として1956年に一帯が特別史跡に指定されました。

 「国宝彦根城」の他、「世界文化遺産・国宝姫路城」「国宝犬山城」「国宝松本城」は「国宝四城」と総称します。現存する数少ない城の中でも、特に文化的価値が極めて高いとされている名城です。そこに集約されている建築技術や美的完成度の高さ、そして「ほんもの」をぜひ、見にいらしてください。

見どころへゴー

佐和山城跡。山腹に石垣の一部が残るのみ。
天守は大津城の天守が移築されたという。
彦根城天守写真
天秤櫓写真

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